日本の平均的な旅館を上回るGOPを弾き出し、利益も相応に稼ぎ出しているD氏の旅館。だが、鳥瞰的に広い目で自館の経営を捉えているだけでは、見えない部分もある。D氏は、いわゆる「裸の王様」ではない。だが、私のように辛辣な感想を語る人間には、あまり出会っていなかったようだ。
料理を無造作に置くだけの接客係に対する私の指摘は、ある種のカルチャーショックをD氏に与えたともいえる。とりわけ、業界で定評のあるコンサル会社を招いて指導を受けさせていれば、「きちんと接客ができている」と思う気持ちも分からなくはない。だが、コンサルには限界がある。肝心なのは、現場の従業員の資質なのだ。一方、別の見方もある。
「画一応対では満足をしてもらえないのが接客。それをマニュアル化するのは……」
という話もしばしば聞く。とりわけ旅館の商品価値を熟知した経営者に、こうした発想の持ち主が多い。確かに、十人十色のお客には画一化でなく臨機応変が不可欠だ。しかし、接客係の資質に委ねきってしまえば好評と不評のバラツキが生じ、結果として品質グレードを低下させる。
こうしたジレンマに対して構造改革では、1つの回答を用意している。配膳システムの説明で指摘している「人の流れ、モノの流れ」は、仕組みさえ構築すれば適格にオペレーションできるということ。これが実現できると、作業に潜む「ムリ・ムダ・ムラ」が排除できて、経営から日々の接客まで余裕が生まれる。
さて、2度目に訪ねたおりには食事の接客から始まって、こもごも話しをしていると、D氏はそのつど大きく頷いていた。
「これで、調理場はいい意味のマニュアル化ができますよ」
とD氏は、決断をしたようにいい放って、さらに言葉を継いだ。
「大局ではなく、各論として気づいた点はそのつど現場で指摘をしてきたのです。でも、それはモグラ叩きと同じで、1つを指摘して直させると、別のところで違う問題が生じる。それを直していると、前に直したところで再び問題が起きるのです」
D氏の悩みはわかる。私はいった。
「根幹となる部分を具体的に仕組みとしてルール化して来なかったのです。配膳システムは美辞麗句を並べたお題目ではなく、具体的な作業のオペレーションなのです」
つまるところ配膳システムは、精神論ではなく数学的な合理性のもとでベースを確立させる。その意味では、まさにツールなのだ。同じ刺身を切るときに、ツールである包丁の切れ味によって見栄えは「ハレの料理」にもなるし「ケの料理」にもなってしまう。お客の満足は「ハレ」の方が高いに決まっているし、売価と満足の相関関係に作用してくる。
こうした点についてD氏の理解は早かった。それには、平均単価の下落と比例して料理原価が下がったこと。さらに調理場に独特な板長を頂点としたブラックボックス、あるいは経営者といえどもアンタッチャブルな慣習があること。そうした点にも気づいていた。したがって、行動も早かった。さっそく、配膳システムの導入にとりかかったのだった。
私にとって20年以上も前の話だが、経営者像として3つの驚きを感じた。1つ目は、社長はいつ仕事をしているのだろうということ。2つ目は、膨大な借入金があるのを自慢にさえしていること。3つ目は、出世をするには喧嘩が強いか声が大きいこと。どれもいい意味ではなかった。
D氏は、その1番目に該当する。だが、往時と違うのは、いい意味で「いつ仕事をしているのか分からない」ということ。その理由が地域や業界活動であることを知った時、D氏の経営者像を納得した。他人の話に耳を傾ける姿勢はあるのだが、一方で持論に固執する一面がある。そうした一家言の持ち主は、地域の牽引役として今後の温泉地運営に欠かせない。その意味でD氏は素晴らしい「宿六」であり、近代経営ツールはその補佐役になれたようだ。
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