前回、旅館の現状を考察しながら、経営者は発想を変える必要があると述べた。なぜなら、旅館経営は経営者の資質に委ねられているからであり、これまでに「経営者の資質9カ条」を提示してきた。今回から、この9カ条に照らして経営者群像を描いてみたい
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その日、私は例によって福岡空港の早朝フライト便で1軒の旅館に向かっていた。かねて、配膳システムの導入をはじめコンサル業務などで、少なからぬ実績のある旅館だった。今回の訪問は、業容の拡大に見あったHACCP厨房をプレゼンテーションするためだった(HACCPは「危害分析重要管理点」と邦訳されており、HACCP厨房とは原材料から料理の提供に至る厨房業務の衛生管理手法をシステム化した旅館の近代経営ツール)。
機中でノートパソコンを広げ、プレゼンテーションのドキュメンツを確認していた手が止まった。
客室アテンダントが飲み物を聞きにきたこともあるが、それ以上に、これから訪ねる旅館のオーナー(A氏)の顔が脳裏を過ぎった。久々の訪問なのだ。私は、思考のコントロールをやめ、意識がおもむくままに訪問先とオーナーの顔を脳裏に遊ばせた。
その旅館は、ロケーションに恵まれた温泉地にあった。客室規模は250室ほどだが、いわゆる団体のみを対象にした大型館とは一線を画している。今流の言葉でいえば「ブランド志向」に徹して成功を収めている旅館の1つといえる。だが、現在へ至る道程は、決して平板なものではなかった。そんな思いが唐突に湧き、意識は時間を遡りはじめた。
現在のオーナーは、かつて得意分野で辣腕を発揮するサラリーマンだったが、先代社長の体調不良で「想定外」の転身を余儀なくされた経緯がある。そうした形での二代目、三代目の誕生ドラマは、旅館業で決して珍しいものではないし、「本当は好きな分野の仕事を続けたかった。旅館業へは仕方なしに入った」という話しも、少なからず耳にしている。巷では「でも、しか○○」という言葉がある。「○○でも、やるか」「○○しか、できない」といった意味らしいが、そうした職業観は好きになれない。同様に、どんな経緯にしても、経営を引き継いだ後まで「仕方なしに」との思いを引きずっているのも論外だ。モチベーションからいえば、「でも、しか」の方が「やる気」では勝っているかもしれないが、いずれにしても五十歩百歩だ。
ところが、この旅館の現オーナーには、家業を渋々ながら継いだという雰囲気が、往時も今もまったくない。私との出会いもそうだった。私が提唱する旅館の構造改革やそのツールである配膳システムの話を、当時、先行導入していた他館で聞きつけ、自らオファーしてきた。そして、これまでに類例のない構造改革の話などをすると、少年のように目を輝かせて耳を傾けていた。
そういえば、サラリーマンを経験したとの話も、後になって聞かされた。当初、異色の経営手腕ともいえる徹底した数値管理や、そのためにパソコンを自ら操作している姿に瞠目したが、実はそうした経営スタイルはサラリーマン時代に培われたもののようだと、その話を聞いて納得した
社長室にあった書籍や雑誌には、どれもポストイットが貼られていた。その中の1冊を取り上げて「ほら、こんな風に紹介されているんですよ」と、ポストイットの貼られたページを広げてみせたのも、妙に印象に残っている。そこには、自慢する雰囲気は微塵もなかった。むしろ、口コミ宣伝を怠らない日ごろの姿勢が、私に対してまで自然に滲み出てきたような好感をもった。
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