「求める理想は実現する」 その48
いま発想の転換が求められる

Press release
  2007.04.28/観光経済新聞

 旅館の経営者は、発想を変えないといけない。その思いを切実に感じたのには、実はこんな話があった。それは、ある温泉地でのことだ。地域活性化へ向けた話を聞きたいとの要請があって、私はその温泉地へ向かった。現地で集まった経営者は、旅館の伝統的な文化論を熱く語る。そうした文化論を反映させた形で、組合の事業として街づくりに取り組もうとしているのだ。それ自体は評価できる。だが、現状を問いただしてみると、地域としての足並みが揃そろっていない。事業は中途半端で成果どころか、かえって個々の旅館経営の足さえ引っ張っている。

さらに聞いてみいると、ご多分にもれず異業種からの参入組が、地域を蚕食し始めている。従来の経営手法と旅館文化を引き継ぐ伝統的な旅館を体制派とすれば、そこに新興の勢力が台頭してきたわけだ。それらの異業種からの参入組は、いわゆる老舗旅館が「経営悪化→ファンド(等)→異業種経営」というプロセスを経たものだった。したがって、経営面では異業種の手法をとりながらも、老舗のブランド名は継承している。
この構図が秘める意味あいは、業界人ならば誰でもわかる。ところが一般の利用客は、そうした構図など知るよしもない。いい換えれば、誰が経営していようと消費者にとっては、どうでもいいことなのだ。価格がサービス内容に照らしたときに妥当であれば、お客にとって文句はない。むしろ「あの旅館が、この価格で」といったフレーズを、額面どおりに受けとめる。体制派が「そんな価格では伝統も文化も守れない」と地団太を踏んでも、はじまらない。確かに、体制派の経営システムでは、価格志向に対応するにしても限界がある。
私は、これまでも機会があるたびに、不動産業と料飲業の明確な区分と、それに応じたマネジメントシステムの確立を訴えてきた。なぜなら、旅館の経営者は「旅館の伝統と文化を継承していくことに旅館経営の難しさがある」という。それを、あたかも正論のように受けとめる経営風土が業界を被っていたが、それだけでは経営を持続できないという危惧を、私は抱いていた。なぜなら、旅館の文化や伝統を継承することと、企業として存続させる経営は、より高次な理念レベルで融合するものであっても、マネジメント段階では別個に捉えなければ経営は成り立たない

これに対して異業種から参入した新興勢力は、文化や伝統を云々するの前に、まず利益を出すための「経営」にすべての経営資源を投入する。極論をいえば、文化や伝統のために投入してきた経営資源も、必要であれば躊躇せずに切り捨ててしまう。
体制派と新興勢力のこの違いはどこから生まれるのか。単純に模式化すると、経営に対する関心事のベクトルが違う。体制派は、文化や伝統を機軸に(実態の有無は疑問だが…)旅館業としての「態」を固め、それをもってマーケットに訴求しようとする。これに対して新興勢力は、マーケットの志向を精査して自館にあった客をセグメントし、そこに適した価格政策で訴求していく。もちろん、体制派でも「ニーズへの対応」といった言葉で、これまでも市場をウォッチしてきた。
ところが、このニーズに落とし穴があった。象徴的な言葉が「非日常」だ。それは、願望であることを、消費者自身がもっともよく知っていた。だが旅館は、その願望を満たすことがニーズへの対応だと捉えるミスマッチがあった。願望とは、喩えるならば大衆車に乗る資力しかない人間が高級車にも乗ってみたいと思う気持ちとニアセイムなのだ。車のディーラーがそうした願望の人間を訪ねて高級車をセールスしても、売れるはずがない。ところが旅館は、「伝統と文化」にこだわるあまり、大衆車の価格で高級車を提供してきた。過剰投資だ。大衆車の価格で大衆車を提供し、その範囲で可能な満足感を提供するのが、本来のマネジメントであり、新興勢力はそうしたマネジメントに徹している。ゆえに利益の創出が可能なのだ。冒頭の発想の転換にはそうした意味がある

(つづく)

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