旅館業では、日本の伝統や文化といった言葉がしばしば登場する。伝統とは、民族や地域の人々が永年にわたり培ってきたものを指している。対象は、信仰をはじめ風習、制度、思想、学問、芸術など多岐にわたるが、肝心なのは所作や姿形でなく、それらに秘められている「精神」だとされている。その意味では、精神を忘れて形にとらわれ過ぎ、これ見よがしなエセ伝統が目に付くのも気になるところだが、その話は別の機会に譲りたい。
また、文化については、かつて「人間が理想を描き、それに近づこうとする精神活動が文化であり、その過程で生み出される創意工夫が文明」だと聞いたことがある。言葉の解釈はさておき、伝統と文化のどちらにも共通するのが「精神」だ。人間にとって精神活動は、人間が人間たるゆえんのように思えてくるが、理系の私としては、ボロの出ないこの辺りでやめておきたい。
なぜ、このような話を冒頭に据えたかといえば、前回の末尾で触れた「GOPに賭けるプライド」にも関連するためだ。プライドとは、まさしく精神活動のジャンルなのだが、それを客観的に自己評価しようとすれば、やはり理系の数値換算の方が、私としては理解しやすいと思う。「GOP20%を達成しよう」と目標を掲げ、それを達成できれば一定の自信がもて、プライドを裏付ける根拠にもなる。数値効果による「精神安堵」といってもいい。それをバネにして、新たな目標設定へと好循環スパイラルを描くことが可能だ。精神と計数の融合というのは大袈裟だが、そうした発想が経営トップにほしい。
一方、現状をみると「赤字不感症シンドローム」ともいえそうな状況が、業界にはびこっている。その背景にあるのが、実は冒頭の伝統や文化を継承する精神論と、税制や運営にかかわる数値的な現実論の混在ではないかと、私は考えている。伝統的な接客サービスの形態を維持しようとすれば、そこには相応の経費を投入しなければならない。だが、一方で価格志向が強まっている。結果として「利益を出し難いのが旅館業なのだ」といった諦観にも似た経営観が、ここ10余年まかり通っているように思える。諦観とは、精神の領域であり、諦観が映し出す心象風景からはプライドが消えている。そして、それを生み出しているのは、現実的な経営状態=数値の領域なのだ。
だが、旅館業は決して利益の出ない業種ではないし、実際にかつて不動産業と料飲業のダブルチャージで、GPO20%、30%という経験もしてきた。問題は、当時の経営スタンスにあった。私は、かつて拙著の中で、バブル時代は「借金をする度胸があれば経営者でいられた」と書いた。当時の状況は、投資に次ぐ投資が当たり前だった。
その要因の1つは、建物に対する税制だった。定率税制の下では、初期投資の税率が大きくなり、当然ながら赤字の幅も大きくなる。一方、投資から年月が経過して減価償却が進むと、逆に利益が大きくなる。その結果、利益が大きくなると融資を受けて次の投資を行う。いわば税の調整を図るような意味から、「赤字が出て当たり前」といった中で、赤字不感症シンドロームともいえる投資サイクルが生まれていた。それは、ジョーズだった。生きている限り泳ぎ続け、止まることが死を意味する悲しい宿命にも喩えられてきた。
もちろん、生物が新陳代謝を繰り返しながら生きているように、適正な投資は欠かせない。多少はしょって結論をいうと、例えば、平成10年の税制改正では、建物に対して定額と定率の2つの算出方法から選択が可能となった。そして、定額を選択すると、税と利益とニーズの変化、そして経営状況をにらみながら、小刻みに投資を繰り返すことができる。
前回、GOPにプライドを賭けている経営者の例を紹介したが、そうした経営者は、税制や計数面に対しても柔軟な姿勢で反応する。そこには、諦観といった荒涼とした心象風景はない。伝統や文化の精神論と、経営数値の現実論が唇歯輔車のごとく並立しているのだ。
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