「儲けるための旅館経営」 その84
自社単価の「妥当性」見定めを

Press release
  2011.6.18観光経済新聞

前2回にわたり、宿泊単価の引き下げについて検証してきた。結論として、単価を引き下げても、返済原資や施設の維持管理コストは変わらない。いい換えれば、室料として確保すべき額面は、引き下げ後でもキープしなければならい。そのために料理運営コストを見直す。とりわけ、このコストの中で過半を占めているのが接客要員のコストであることから、接客要員比率の改善を訴えてきた(右図=再掲、解説は第82回参照)。

こうした発想は、綿密なシステム構築の下で実行されれば、接客要員比率の見直しで社員定数を半減させても、実際の接遇面でCSを損なうことはない。同時に計画休暇でESも高まると述べた。

これには、1つの前提条件が必要だ。それは、自社の標準単価(自社のほしい価格帯)に対する適正度、妥当な価格なのか否かという見極めだ。標準単価の設定では、基本的な要素として、@客室のみをハード面で捉えた評価A浴場をはじめパブリック全体のハード面の評価B接遇体勢などソフト面の評価C料理グレードの評価――などが挙げられる。これらをベースに算出された金額と返済原資などを加算して、自社の標準単価が導き出されてきたはずだ。

ここで、基本的な部分に疑問符が残る。@〜Cの評価は、何に準拠して行われてきたかだ。バブル時代には、投資額に対して返済期間などを基準に標準単価を割り出すような、かなり乱暴な発想も少なからずあった。投資はアセスメント(事前評価)に基づく採算性に立脚したものであったとしても、基本的に各社の個別事情であることに変わりない。加えて@〜Cの評価に対しても、業界として一定の指針があるわけでない。詰るところ客観性に欠けている。

極めて不適切な譬えとも言えるが、江戸時代に「百姓と雑巾は、搾れば搾るほど出る」と言った言葉があったとか、ないとか。いずれにしても、士農工商などと持ち上げる一方で、為政者側(あるいは優位な側)にその発想があったがゆえに、今日にまで伝わっているのだろう。

さて、昨今の価格志向と言われる旅館への圧力から、前述の「百姓云々」を彷彿とさせられるのは、筆者だけなのだろうか。旅行業者や消費者から際限なく突き付けられる単価引き下げ要求は、それらの第三者から見た旅館の単価が「もっと下げられるはずだ」と感じさせるものなのか。そうだとすれば、大きな要因の1つは、標準価格の根拠が脆弱なことにあるようだ。つまり、@〜Cの評価や価格への転嫁基準が手前ミソであって、説得力に欠けている。また、標準単価に対して上の図中@〜Bの中で、実は元々その施設はBを標準単価にするのが、妥当ではないかとの見方も不可能でない。

いずれの場合でも、実際には可能な限りの合理化に努め、もはや限界にきているのが実態といっていい。そうした中で提唱している接客要員比率の改善によるコスト削減は、さらなる合理化のための施策ではない。まして、単価引き下げを前提にした価格政策のためでもない。日本の伝統と文化を継承する旅館が、健全な経営を続けて未来へ受け継がれていくためには、譲ることのできない「GOP15%確保」を訴えるものだ。(つづく)