今回は、連載中の「接客要員比率」の稿を1回だけ休筆し、東北関東大震災に関連した最近の動向から気にかかる点を述べたい。というのも、東北関東大震災の被害の全容さえいまだ見えない中で、福島の原発事故にからむ風評被害が目立ちはじめたからだ。震災と津波による被災地の方々の苦難を思えば、直接被害と風評被害を比較することはできないが、それでも風評被害は甚大なものになりつつある。
4月3日付の朝日新聞朝刊で次のような見出しが目を引いた。そこには「100`離れた温泉街キャンセル次々」と書かれていた。記事では、会津若松市や東山温泉をとりあげており、新潟県や千葉県の修学旅行が取りやめになったことも紹介していた。これら両県は、福島県と距離的にみて極端に離れているわけではない。キャンセルの出た会津地域が事故のあった原発地域から100`圏ならば、新潟・千葉の両県は200`圏ともいえる。だが、「福島県」というレッテルだけで旅行先から外されてしまう。筆者の住む九州の人間が、事故現場と会津若松の距離感をイメージできないとしても、ある意味でやむなしの感はある。
一般にこうした風評被害では、事故のあった周辺地域とそうではない地域が、単なる行政区分である県名だけで同一視される現実がる。事故現場とどのような位置関係にあるかは、ほとんど斟酌されていない。これが風評の怖さだ。もちろん、観光だけでなく1次産品をはじめ、被害は多方面におよぶ。
国内で近い距離にあっても、こうした風評が起きる。これがグローバルならどうなるのか。考えただけでも、おぞましい。筆者自身に置き換えてみても、アメリカやヨーロッパの1地方都市名を挙げられて、その場所を地理的にイメージすることは難しい。せいぜい「どこそこの国かな」と思い浮かべるのが関の山だ。それは、国内の県単位の捉え方が、グローバルなら国単位ということになる。つまり、福島県ではなく「日本」が風評の対象になることを、これからは覚悟しなければならない。
このことは、観光庁ができてインバウンドの拡大が観光立国の中心的テーマになってきたことに、少なからず水を注した形だ。日本へ行くことが「被曝」を意味する風評につながりかねないし、一部の国では、国内でそうした風評が立ち始めたとの伝聞もある。これを食い止めるには国をあげた国際世論へのプロパガンダも必要だろうが、それは筆者の関与できる分野でないこともわきまえている。
肝心なことは、こうした国難ともいえる未曾有の災害を被った状況下にあっても、むしろそうした状況下であるがゆえに、日本の伝統であり文化である「旅館の灯」を絶やさないために、最大限の努力をすることに尽きる。
ただ、関東圏では新聞紙面に連日掲載されていた旅行の広告が自粛され、世論も「旅行には……」といった流れにある。日本人の美徳とされる気質の1つに「我慢」があり、現状ではそれが発揮されているようでもある。だが、不謹慎と捉えられること恐れずに言えば、我慢には常に限界もある。観光への欲求は、どのような災害に見舞われても、決して消滅するものではない。
関東以西をはじめ震災を免れた地域は、被災地の1日も早い復活を念じつつ、仮に観光旅行が一時の自粛ムードにさらされたとしても、旅館の灯を絶やさないための努力は欠かせない。前段で不謹慎の言葉を用いたのは、こうした状況下だからこそ改めて自社の現状を捉え直す「時間的な余裕」が与えられているとも考えられるからだ。また、観光立国の推進によって、ムード的にインバウンド対応にシフトしはじめていた種々の在り方を、旅館本来の「おもてなし」に照らして再吟味する必要もある。海外や全国的な観光客誘致が難しければ、地元客にシフトした誘致策を講じるのも欠かせない。そして、経営面ではマネジメントの手法にメスを入れてみる。試練の時期だからこそ経営者に期待したい。(つづく)
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