ホテル志戸平でツアー客に食中毒の嫌疑がかけられる事件が発生してから、およそ1カ月が経過しようとしていた。私が想定したように、EUへの視察旅行中に処分などの緊急事態で呼び戻されることもなく、嫌疑は「白」としてすでに一件落着したといえる。
「うっ、寒い」
花巻空港に降り立った私は、思わずコートの襟をかき寄せた。〈宮沢賢治の里・イーハトーブも、この寒さだけは理想郷とほど遠いな〉と、勝手な思いにかられながら迎えの車に乗り込んだ。ばたばたと国内外を飛び歩いているうちに、この年もあと1週間で暮れようとしている。寒くてあたりまえの季節をいつしか迎えていた。ホテル志戸平は平静を取り戻し、忘・新年会旅行シーズンの活況を呈していた。
今回の食中毒嫌疑は、一部の地域で新聞報道がわずかにあったものの、原因施設は特定されないまま幕引きがなされたようだ。それこそ、私の〈想定範囲内〉で済んだのが喜ばしい。だが、私は1つの決意を固めていた。
〈食中毒防止の抜本対策を講じてほしい〉
との思いだった。幸いなことに、ここホテル志戸平の社長・久保田浩基は、食品衛生への関心が高い。それ以上に、経験を教訓として活かす能力に長けている。すでに提案してきた事柄についても、おおむね理解を示してくれていた。今度の訪問は、そうしたことへのツメともいえる。
私は、食中毒防止の抜本対策として、2つの提案をしてきた。とりわけ画期的ともいえるのが、食品類の納入業者から協力をとりつけて、社内に仕入食品の検査システムを構築することだった。久保田は、かつての苦い経験を教訓に、自社の厨房に衛生管理マニュアルを導入している。だが、それでも防げないのが、汚染された食品の外部からの侵入だ。
食中毒事故に際しては、トレーサビリティ(跡付けのできる仕組み)によって原因を究明・特定することも大切だが、肝心なことは発生を未然に防ぐことだ。館内の衛生管理ができていても、汚染されている食材が侵入すれば、事故につながる。それが〈想定外〉の不可抗力だったとしても、旅館側の言い訳は通じない。そうした意味で検査システムの構築は、何としても実現させる必要があると考えていた。
もう1つが私の持論を具体的な実践の形に落とし込んで完成させた配膳システムの導入だ。
よく「車の両輪」といわれるが、この2つの提案もそれに似ている。食品の搬入口をゲートウェイに喩えるならば、そこを基点に汚染品を未然にチェックするのが検査会であり、それをパスした食品の二次汚染や食中毒菌の増殖を防止するのが配膳システムということになる。両者が補完しあえば食中毒事故の発生リスクが大幅に軽減する。
翌日の久保田との協議では、検査会の方向性の大半が固まった。一方の配膳システムは、このクラスの旅館になると半端な投資額ではない。しかし、久保田は一定の条件を出しながらも大筋では導入の腹を決めたようだった。
疫学の専門家としては、旅館から食中毒事故を撲滅したい。その思いが、また1つ実現に近づきそうな年の瀬だった。
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