保健所から戻った専務の八重樫勝司と私を待ち構えていたのは、患者からウエルシュ菌が検出されたとの知らせだった。前夜と同様に社長の久保田浩基、八重樫、調理長の鈴木光雄、そして私の4人で急遽、対応策の検討を始めた。事は急を要する。というのも、午後には保健所の検査が入ることになったからだ。
切迫した面持ちの3人。だが、保健所の検査自体に私はさほどの脅威を感じていたわけではない。といって、同じような場面に遭遇してきた単純な〈慣れ〉というものでもない。疫学の専門家として原因菌が特定されていない事実や、患者から検出されたのがウエリシュ菌だったことなど、現時点で得られている情報を総合すると、私なりの対応方法が想定できるからだ。
それに、こうした場面で専門家が〈おたおた〉してはならない。周囲に不用意な安堵感を与えてはいけないが、といって必要以上の緊張も和らげねばならない。要は、平静を保たせる役柄に徹する必要がある。その兼ね合いが難しい。
そして、午後4時30分。保健所から担当主査と技官が訪れた。検査は型どおりのものだった。私は担当主査に聞いた。
「患者の検便からウエリシュ菌が検出されたとの一部報告がありますが、それが原因菌とみなされているのですか」
その問いに対して主査は慎重だった。
「原因菌と確定しているわけではありません」と、言葉を選びながらのような答え方だった。
この検査で今回の疑惑自体に直結する指摘箇所はないはずだが、私が懸念していた厨房作業の仕組みに対しては、案の定、言及があった。それは、食中毒菌の増殖防止策が未然だということ。
ホテル志戸平では、食中毒防止へ向けた独自のマニュアルを作成し、衛生管理面への取組みが徹底している。それでも残る現状での弱点ともいえる部分が、厨房での増殖防止へ向けた仕組みづくりだった。保健所側の言及はそこまでだったが、私からみるともう一つある。それは、汚染された食材の外部からの侵入防止策だった。
私が主査の言葉に〈案の定〉と感じたのは、この2点について昨夜の協議で、すでに防止策の一部をほのめかしていたからだ。
やがて保健所の一行が引上げた。場数を踏んでいても、ほっとする安堵感はある。その思いは一層強く周囲にいた関係者の面持ちに表れている。だが、これで終わりではないのも誰もが承知していた。私は、八重樫との最終協議に移った。
未だ緊張感の残る彼に、私はいった。
「食中毒の発生源はホテル志戸平ではない――これを基本スタンスに今後の営業にあたりましょう」と。そして今後、1日に1回は自身で保健所と電話連絡を行い、状況の確認を行うこと。「新たな進展があったら、時間など気にすることなく私に連絡をしてください」との対処方を示すとともに「処分などの事態になれば、私のところで対応しますよ」と付け加えた。決してその場しのぎの安堵感や慰めの意味ではない。だが、緊張を解く効果があるのも事実だ。いまは、いち早く平常時の感覚を取り戻してもらうことが私の役目でもあった。
|