「旅館再創業」 その15
「接遇責任者」誕生の経緯
Press release
  2004.09.18/観光経済新聞

 私は、原稿を書き進めながら、ふと思った。同時にホテル清風園副社長の飯島寿一の顔が浮かんだ。この原稿が掲載される9月中旬には、清風園の接客部でドラスティックな事態が生じているはずだ。予定では15日に、接客部門の接遇責任者としてA子が就任する。この人事は、かなりの紆余曲折があった。
その日、私は飯島寿一とゴルフを楽しんだ。スコアは、忘れた(ことにしておこう)。帰りがけに清風園近くの焼き鳥屋へ立ち寄った。飯島は「地元では、それと知られた有名店」だという。誘われるまま入ったその店は、確かに旨い。しばらくすると賑やかな一団が店へ入ってきた
飯島が一行へ顔を向けると、こもごも挨拶をしながらこちらへ寄ってきた。聞けば清風園の従業員だという。期せずして労使和気藹々の酒盛りになってしまった。私は、副社長・飯島の予期せぬ一面を垣間見た思いだった。10分か15分ほど過ぎたころだった。彼女たちとの他愛のない話の中で、何かモヤモヤとしたものが、私の頭の片隅に広がりはじめていた。
その思いを無理やり抑えつけ、愚にも着かない話をしながら、それとなく一行の顔を改めて見直した。そのとき、A子のところで注意喚起のチャイムが鳴った。記憶はすぐに蘇った。運営変更の個人面談で1度会っていた。だが、彼女は正社員ではなかった。かつて社員として在籍していたが、結婚した後は9〜6時勤務で日曜日は休みの事務系限定社員だった。
目の前にいるのにおぼろげだった彼女の輪郭が、記憶の糸がほどけるにつれて鮮明になってきた。そう、個人面談の折に、接客への高い関心と接客業自体が好きだという印象をもったが、家庭重視の姿勢も理解できた。「高いスキルがあるのに残念だ」と思ったのを記憶していた。
飲むほどに話は進む。そうした中で私は、彼女にキャリア志向があるのを察知した。先ほどの注意喚起が正解音のチャイムに変った。その心地よい音色と程よい酔いでゴルフの疲れもいつしか消えていた。
翌日、私は前日のシチュエーションを反芻しながら、彼女の何がキャリア志向を印象付ける要因だったかを整理してみた。彼女のことを常務の陶山和恒にも話した。陶山は言下に「以前、フロントを担当させていた時に、私も彼女はよくやる人間だと思っていた」と答えた。
考えはまとまった。私は役員会で彼女を接遇責任者とする案件を諮った。役員会の結論が、15日の新接遇責任者誕生なのだ。
ここへ至る道程は、決して平板ではなかった。最初の驚きは、予備調査に入ったときだった。一口でいえば、客導線がパントリーになっていたのだ。宴会場前の廊下にモノを置き、何の疑問も抱いていない。接客業としての基本的なセンスが疑われる。接客とは、単に愛想よく接することだけではない。お客様が「何という宴会場だ」といった不快感を起こさせないことも、接客の原点なのだ。
当時、メイド長は20年選手のベテランが務めていた。客導線をパントリー化して平気なのが彼女のセンスだったとはいわない。清風園にバックヤードが少ないことを考えれば、当初は緊急避難の処置だっはずだ。それが恒常化すると、何の疑問も抱かなくなる。そうした感性の麻痺は、他の仕事態度にも波及する。清風園固有の現象というよりは、大多数の旅館で多かれ少なかれ陥っている。
そのメイド長は、運営変更でシフト管理が全面変更になることを告げられると、自ら辞した。
懸念されることはいくつかある。その時点で清風園に必要だったのは、お客様を喜ばせる接遇への意識変革だった。通常は外部から教育担当者を招聘するのだが、講義だけでは日々のモニタリングができない。社内から担当者を排出するに越したことはないが、これには相応のスキルが求められる。新接遇責任者には、そのスキルがある。だが、永年の習慣を変える先棒を担ぐわけだ。バッシングがあるかもしれないし、それに耐える精神力と時には受け流す技量を、彼女に期待するしかない。 
(企画設計・松本正憲)

(つづく)

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