新聞に目をとおし、パソコンのメールもチェックした。必要な返信も送った。毎朝の日課を終えて時計を見ると、6時には多少の時間がある。早朝の散歩に出ることにした。
昨夜も寝苦しい熱帯夜だった。東京では30度を超す夏日の連続日数が記録を更新した、と新聞の見出しで見たような気がする。とにかく、今年の天候は異常だ。私の住む飯塚も例外ではなかった。
散歩に出てすぐだった。耳鳴りのような煩わしい雑音が、耳奥にこだましていた。〈寝不足かな〉と思ったが、異様なほどに激しい蝉時雨だった。おまけに朝から暑い。〈いうまいと思えど……〉といった気分になってくる。そそくさと散歩を中止し、自宅ではなく隣接する社屋の社長室へ向った。なぜか落ち着く。
仕事を開始する時刻ではない。だが、机の片隅に積み上げられた本や資料の中で、1冊のファイルだけがが目にとまった。ホテル清風園のものだった。目的の定まらないまま、パラパラと繰ってみる。時系列で運営変更の経緯が記されている。ふと、奇妙な思いにとりつかれた。
最近の書類は、誰が書いたものかわからない場合がある。そのことだった。書類の大半が手書きだったころは、だれの書いたリポートかは字をみれば分かったものだ。ところが、いまは個性のないPCフォントで埋め尽くされている。そのファイルが目にとまったのは、見慣れた私の手書きメモがはみ出していたためだった。
メモには「人事考課委員会→運営変更(移動)→個人面談」と記されていた。これは、通常の運営変更と異なる手順だった。ある意味で〈安全策〉ともいえる運び方だった。
その時の役員会の様子が脳裏に浮かんだ。私は「配膳システムができたときには人間が余る」といった。だが、経営陣の間には、運営変更に伴う人事施策に躊躇の色が濃かった。当然かもしれない。これまで手をつけ難かった部分である。
ところが、配膳システムを導入して運営変更をかけてみると、はやくも4日目ぐらいから変化が現れた。「こんなに人間が余るのか」といった言葉が聞かれた。それをいったのが誰かメモには書かれていない。一人ではなかったために名前を記さなかった記憶がどこかに残っている。
配膳システムが適正に機能しはじめると、従来の運営人員に「いかにムダがあったか」が即座に露見する。これは、ここ清風園に限ったことではない。だが私は、そのことを強弁に主張しなくなっていた。多くの実績が「すぐに分かってもらえる」ことを立証していたし、そのために運営変更のスケジュールが多少迂回しても、それを取り戻す自信ができていた。
人員運営で「こんなに余るのか」といった人事面での効果は、約20人の人件費削減となって表れていた。これは、経営陣が想定した以上の数字だったかもしれないが、運営変更の基本計画に照らすと、それでも、さらに10人ぐらいの余剰人員が見込まれている。
こうした配膳システムにかかわる一連のスケジュールを振り返ると、6月のはじめに運営を変え1カ月ほどで効果がでてきたことになる。
そうした効果に対して、他館からの見学が訪れるようになった。常務の陶山和恒が感慨を込めていった言葉を覚えている。
「つい数カ月前には、私どもが飛騨温泉の高山グリーホテルを訪ねて教えを請うた。こんどは自分たちが訪ねられる側になってしまった」
そう、見学を受け入れられる実績を残しはじめた。だが、これは第一歩を踏み出したにすぎない
人件費が当初の目標どおり数百万円のオーダーで削減された。内部のコスト削減をトラックレコードとして、次の段階へ進まねばならない。売上アップへの販売施策と売れる施設への設備改修だ。それには融資先が要求する「3カ年の事業計画」を策定しなければならない。いわば、サクセスストーリーの構築である。これを提出しなければ、本当の資金調達ができない。
だが、関門は他にもあったのだ。
(企画設計・松本正憲 =文中敬称略)
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