福岡県飯塚市の本社に、私はいた。博多から車で30分強決して便利がいいとはいえない。だが、道路を隔てたところに社員寮を併設でき、顧客が全国展開していることなどを考え合わせれば、特段の問題はない。それでも、博多と東京に拠点は確保している。
研究ファイルとモデルカーが並んだ部屋を「社長室兼子供部屋」と称した人間がいる。社長室然としていない意味なのだろう。だが、新しい施策に耽るときは、既成概念にとらわれない方がいい。少なくとも私はそう思っている。
いまも、お気に入りのモデルカーに目をやっていると、自動車はどう造られるのだろうなどと、たわいのないことが思い浮かんでくる。一人の人間がパーツの一つずつをつくって1台を形にするわけではない。各パーツを専門の工場でつくり、組み立ての専門化が工場で仕上げる。いわば、アッセンブリーか…。
思考は、そこで中断された。高山グリーンホテルを訪問する際のスケジュールを社員が知らせにきた。私の指示した事柄がトレースされたのに過ぎないが、相変わらずストレートに高山入りはできない。
翌朝、7時台の飛行機で博多を後にした。高山に着いたのは、その3日後だった。梅雨明け前とは思えない暑さの東京を経由してくると、高山の夜風は心地いいものだった。だが、そうした快感にひたる余裕などまったくなかった。
午後6時半。洗浄室に入った私は、作業の流れを示すインストラクターに変身した。ここ高山グリーンホテルでは、構造改革に必要なシステム設計はしたが、インストラクターを投入する運営指導の契約はしていない。内部の社員がノウハウを覚えて、自分たちで仕上げていこうとする方法をとったからだ。余力のあるなかでの構造改革とあれば、時間がかかっても自分たちで仕上げる方向性は、相応に意義がある。
だが、実際の現場に入ってみると、3週間前と大差はない。そこに「成功の方程式」は微塵もなかった。これだけ広い食器洗い場が確保されているのに、そこがモノであふれかえっているのだ。システムのメカニズムをまったく理解していない。だが、実際の指導を開始すると、何とか形になる見通しが、少しずつだが表れ始めた。
事件は、そんな時に起きた。私は、気配というよりは勘に突き動かされて振り返った。そこに、顔色の消えた内木真一(取締役管理本部長)の顔があった。時間は午後8時、作業はピークに差しかかったころだった。責任者がいつの間にかいなくなっていたのだ。
内木は、嘆息した。言葉をつなぎ合わすと、「こんな大事なノウハウを学ばなければいけないときに、問題意識がまったくない」といった意味あいのことを口にした。私も同感だった。
一事が万事といわないまでも、このセクションの背後に潜む問題を垣間見た思いだ。だが、ここまできた以上自分たちで仕上げる意思は貫き通して欲しかったし、そのために私自身がインストラクターを買って出たのだった。
(企画設計・松本正憲)
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