車は程なく高山市内へ入る。フロントガラスには薄暮を過ぎた夜の色が広がっている。時刻はすでに7時近くになろうとしていた。
携帯電話を手にした。運転中の電話は〈まずいな〉と思ったが、到着時間の目処は知らせなければならない。前後の車影は遥かかなただし、対向車も時おり来るぐらい。私はスピードを落とし、受話器を耳にあてた。発信音はほんの数回、待つ間もなく交換らしき声が飛び込んできた。
松本を名乗った後「伝言をお願いします」と、伝えて欲しい相手の名前を告げた。ホテルは立て込む時間帯だ。手短に伝えようと思ったし、返事を聞く必要もない。ところが「お待ちください」の声で待ち受け中になった。数十秒後に別の人間が出た。「伝言をお願いします」と伝えたが、「はい」の後で再び「お待ちください」だった。
親切心で相手を探してくれているのだろう。盥回しとはいわないが、待つだけで1分以上を費やしてしまった。こんな時の1分は思っている以上に長く感じる
〈伝言を伝えてくれるだけでいいんですよ〉と、内心は穏やかでなくなってきた。ほんの小さなシミのようなものが心の片隅に滲み出るのを、私は感じた。それが、何かを暗示しているようにも思えてくる。
第一印象が後の結果に大きく影響するとは、よくいわれることだ。心の隅に浮かんだシミは、それ自体たいしたものでないことの方が多い。〈第二印象〉などという言葉があるとは思わないが、次に感じたことで軽く打ち消されることもあるし、ちょっぴり業腹になりかけているときなどは、その対応が好ましいものであれば、逆に感動が大きくなったりもする。クレームの処理が手際よく、かえって恐縮され、好感を持たれるケースにも似ている。といって、そのためにクレームをあえて起こす愚もない。あくまでも結果論だ。困るのは、その〈第二印象〉でシミの上塗りをしてしまうこと。そうなるとシミではなく、もはや消せない〈アザ〉になってしまう。シミとは、実は暗示なのだと、私は思う。
ホテルの駐車場は広々としている。何の苦もなく駐車スペースを確保できるのは、クルマ社会での最低かつ最高の条件だ。私は奥まった一角に車を停めた。〈玄関まで遠いな〉と、贅沢な思いさえしてくる。途中、結婚式か何かのパーティーなのだろうが正装した華やかな一団とすれ違った。そうした光景は、次の新たな客を呼び込む相乗効果にもなっている。すれ違うだけでも、何とはなしの〈ハレ感覚〉が伝わってくる。いわば、そこに〈ケ感覚〉ではない非日常性がある。〈ハレとケ〉このバランスが難しい。
フロントで荷物を預け、ルームキーを受け取った私はラウンジへ足を向けた。電話で伝言を頼んだ相手は、まだ来ていない。嫌な予感がする。今夜、その担当者と会うのは、現在進行中の運営変更で大きな意味をもつ「シフト運用」の状況を把握するのが第一の目的だった。
やがて担当者が現れた。笑顔の裏にある表情が冴えない。担当者はいった。
「ご指導のとおり進めているのですがが、どうもうまくいかない」と。シフト表のチェックなど、システム状況を総体的に検証するつもりでいた私は、いささか拍子抜けをした。もちろんそうした状況もあり得るとは思っていたのだが…。
担当者について2階の洗い場に入った。目に飛び込んできたのは、次々と運び込まれる台車、食器の仕分けから一連の流れそのものが、雑然と交錯している光景だった。状況を説明する言葉は、言下に〈この状態をどうするのだ。構造改革でいう時間帯などでは、仕事がしきれない〉といった実態がみてとれる。
当然だった。現場のフォーメーションが、まったくできていない。仕分け・洗浄・収納と区分けすべきものがゴチャゴチャになっている。シフト以前に担当者と現場のこの感性を変えないといけない。これでは、効果どころか混乱を増幅している。インストラクターを投入し、実際の作業を行って見せるしかないようだ。契約にはないが、それもいたしかたない。私は腹を決めた。 続く
(企画設計・松本正憲)
|