窓から眺める千曲川は、滔々と流れている。ふと、島崎藤村の千曲川旅情の一節が思い浮かんだ。口ずさんでみたが〈千曲川いざよふ波の…〉で、後が続かない。濁り酒云々とあったはずだが、記憶がおぼろだった。濁り酒といえば、清風園で供しているオリジナルの濁り酒も、確かに旨い。私は首を振り、しばしの休息にピリオドを打った。
各部門長が顔をそろえた全体会議から、個別会議までの一連の流れを反芻してみた。全体会議で示された経営改善計画の全容は、予想にたがわず誰もが驚愕と困惑の表情を浮かべるものだった。だがこれはプロローグにすぎない。各人の受けとめ方を質したのは、個別会議だった。
今後のプロセスを考えると、各部門長の受けとめ方を整理しておく必要があった。ただし、個別会議での印象がすべてでないことも承知している。
各人各様だったのはいうまでもない。個別会議で入室し、概要の説明を聞いた後で黙りこくってしまう部門長がいた。沈黙はおよそ10分間も続いただろうか。平生から沈思黙考タイプなのか、それとも概要を掴みきれずにいるのか、個人のキャラクターを熟知していない以上、そこから先は判断できない。私は水を向けた。この計画内容に対して「やれるのか」それとも「やれないのか」を質した。やおら口から出た答えは「やってみなければわからない」だった。
これまでの経験に照らしたとき、そうした答えにもしばしば遭遇した。言下に潜んでいるのは、統率力の欠如した依頼心だ。自分のかかわる業務については、知識と経験をもっている。形の上では指導的なことも行っているのだが、最終的な決断ができない。ぬるま湯に浸っていると、そうした幹部になりがちだ。本人の資質だけでなく、経営側の抱く〈扱いやすさ〉との思惑が相まって形づくられる。すべてとはいわないが、否定もできない。
だが、これでは計画を実行に移せない。私は、〈この計画は他人ごとではないのだ〉という言葉を飲み込み、代わりに社員とパートの作業調査資料を示した。しばし沈黙の後「それならば、やれると思う」の答えが返ってきた。しかし、腰の引けた雰囲気が消え去ったわけではなかった。
従来の運営方法が根本から変えられることに対して、不満の色を露骨に示す部門長もいた。これも、よくある反応だった。自分の方法で采配を振るい、それに対して自信をもっている場合などは、しごく当然な反応ともいえる。加えて、私のような外部の人間にとやかくいわれることに対し、強い忌避感を抱いている。ぬるま湯だから気づかれずにいた部分を、白日の下に晒されるからだ。
その部門長がそうだったとは断言しないが、長年の経験は多くの場合、自分を利する術に変容している。極論をいえば、そこが「ムリ・ムラ・ムダ」の温床にもなっている。構造改革は、そうした弊害を取り除く技術としての側面も含んでいるのだ。新たな運営の整合性を突きつけられることは、古参の従業員にとって辛いことかもしれない。だが、そうした場面で憎まれ役に廻るのも私の仕事だった。
一方、目をキラキラさせながら「これならば従来の問題は解決する」と声を弾ませる部門長もいた。その目の色は、心中に湧き上がる〈おもしろくなったきたぞ〉との期待を反映させたものに違いない。決して私の思い過ごしではない。ひしと感じるものがある。
まず、経営改善へ向けた意識の統一を図る。それが緒についたこれからが清風園にとって、そして私にとっても正念場だとの思いがつのってきた。
(企画設計・松本正憲)
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